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初代・伝兵衛さん(?〜1736)により農家、萱森家がはじまる。
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初代・伝兵衛さん |
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我が家には家計図が存在するのですが、初代・伝兵衛さんについて確かなことは1736年(元文元年)の11月9日に亡くなったということだけです。 |
ですからだいたい1700年頃に萱森家がはじまったと解釈してください。歴史年表を見ると、徳川綱吉の生類憐みの令が発令されていた頃にご先祖様は生きていたようです。 |
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教之が米作りを任される。同時に有機栽培の勉強をはじめる。
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数少ない若い農業後継者は将来、地域の農業を担う事をあたりまえの様に期待される。 |
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農家全員が足並みを揃えてただ農協や県の指導どおりに米を作り、出来上がった米を農協に出荷する。
その道を外れる者は後ろ指をさされる。 |
価値のある米を作ってお客様に喜んでもらいたい。そんな思いから有機農法を勉強し、実際に栽培を試みながら毎年経験を積みました。 案の定、まわりには変り者扱いされましたが初めて農業に充実感を覚えました。 |
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いろんな農法を試みる事によって自分の稲作に自信が持てるようになりました。 |
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そして、新潟県内の農業後継者グループでのコシヒカリの食味コンテストで最優秀賞もいただきました。 自分が育てた米の良さをお客様に伝えながら直接販売したい。 そんなことを考え始めた頃にたまたま入ったレストラン、とにかく食材にこだわり腕の立つマスターのお店でした。 食事中にマスターは必ずお客のところへあいさつに来るのですが、「うちは豚は種子島の黒豚・・・、塩は・・・、水は・・・」うんちくを語っているところに私が「お米はどこの米を使っているんですか?」「魚沼の○○さんに頼んで作ってもらっている。美味いだろ?」 |
「おれの作った米の方が美味いですよ。」そしたら怒ってしまって「じゃあここへ持ってきて食わせてみろ」とのこと、私は翌日本当に持っていってしまいました。 すると次の日、電話が来て「○○さんの米を断ったから今後この米を売ってくれないか?」 これを機に私は世の中に自分の米は認められるという自信を持ち、直接販売をスタートしました。 その後マスターとは仲良くなり、いっしょに全国を食べ歩いたり、味の判断、料理の基本などを教えていただきました。 |

増田先生と植酸栽培との出会い |
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現代、農業の世界にはいろんな農法・理論が存在して、またそれに乗じていろんな資材も存在し、インチキセールスがたびたび田んぼを訪れるのです。 そんな中、知り合いを通じて埼玉から来たというからだの大きな老人が現れ、私に非常識なとんでもない農法を自信満々に伝えます。 |
私にはまったくそれを受け入れる気持は無く早く帰ってくれないかなと思いながらも知り合いの顔を立てるためだけに話を聞いていました。「だまされたと思ってとにかくやってみろ!また来週来るからな。」と言ってやっと帰ってくれました。 一応言われた作業をし、1週間後にまた老人が訪れました。「稲の根っこを掘ってみろ。」稲を土ごと掘り起こし有機栽培の稲と比べるとたった1週間で明らかな根の発育の違いを見せつけられました。まさに私が目指した稲のかたちです。 その後は全面的に先生を信頼し、毎週のように私の田んぼへ通ってきてくれる先生の植酸栽培の理論と私の考えを組み合わせながらいろんなパターンで稲作を試みました。 |

父親になった日 |
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稲刈りシーズンの真最中に娘が誕生しました。 これまでは儲けることを目的に美味しい米、安全な米を作ってきたのですが、子供に食べさせたくないものだらけの時代、 生産の段階では消費者には見せられないような現実がたくさんあり生産者の立場から何とかしなければいけないと考えはじめました。 タヌキオヤジたちの財布を肥やすために娘の時代をメチャクチャにされてたまるか!! |
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植酸米を多くの人に食べてもらうために。 |
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本当の味を世の中に知ってもらうために、そして安全な食への意識をもっと広めるためにはどうやって伝えればよいのか? ・・・おにぎり屋!! 店を持つには金がない。 ・・・移動販売車!! もちろん家族やまわりもみんなが反対しました。理由は「誰もそんなことしてないじゃないか!」とのこと。誰もやらないから私がやらなきゃいけないんじゃない。 そんな中、妻だけは協力してくれました。さすが「いっしょにアメリカで農場を持とう。」という夢を抱いた同士です。 |

おむすび「伝」は予想以上に大反響私が生まれてはじめておむすびを握ったのはおむすび屋をはじめた初日でした。 今思えば最初はホントに酷いものを出していたな〜と思います。 でも誰にも教わることなく毎日試し試しご飯を炊いて、握りも研究して腕を上げました。 おむすび「伝」はあまり時間がかかることなく美味しいおむすび屋として雑誌・新聞・テレビ・ラジオと、 一通りのメディアで話題になり、その中でも日本テレビの「スーパーテレビ」というドキュメンタリー番組では私の東京進出への挑戦を放送され、 一気に新潟から東京へ導かれるようにデビューできました。 そしてそれと同時に港区で株式会社 伝を設立しました。 「分とく山」へ殴り込み!?我流で研究したはずなのに私はいつの間にかごはん炊きとおむすびの先生としてNHKや民放のTVで講師を務めるようになりました。 そんなときに「土鍋ごはんで有名な料理人がいるよ。」という情報を耳にし、釜とかまどでごはんの炊き方を勉強した私はどうしても納得ができず、料理人に会って話をすることにしました。 今振り返っても恥ずかしいのですが、その頃の私は天狗になっていたのでしょうか、心の中では「料理人の鼻を折ってやろう」などととんでもない気持ちもありました。まだ野風m光氏の顔も正体も知りません・・・ 知人の紹介で分とく山のお店で野侮≠ニはじめてお会いしました。このときのことは一生忘れません。 |
野侮≠フ優しさとワクワクするほど楽しみな土鍋ごはんを目の前に、とても幸せな気分を感じました。 直接的な言葉で私に訴えるわけではないのですが、私は大きなことを悟らされました。 「固定観念は無く、食べる人に喜んでいただくために料理をする。それだけ。」あたりまえのことなのに当時の私は考えもしていないことでした。 こだわりを押し付けることしかできない若い職人の野望ははみごとに返り討ちを食らって、野侮≠ノ対するまなざしは尊敬と憧れへと変わりました。 じつはその時、もうひとつのエピソードが起こっていました。 野侮≠ヘ手みやげに持っていったおむすびを私の目の前でひとくち食べてしばらく黙っていました。 何も言わぬまま立ち上がって調理場にいるお弟子さんたちに配り「これが本当のお米の味だよ。」と私の作るお米を認めてくださいました。 こんな生意気な田舎者のお米を喜んでくれるなんて・・・と思ったけど、野風m光氏も強烈な福島訛りでした。 |

東京進出 |
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東京に進出してからもおむすび「伝」の快進撃は続き、6店舗にまで成長し、 メディアでよくあるランキングでもおにぎり部門でだんとつトップの評価をいただくようになりました。 しかしそのとき、提携を結んでいた大手の会社と経営の方向性のずれが生じ、私自身の手ですべての店を一気に閉めてしまいました。 商売というのは仕方のないものだと分かってはいるのですが、工場で大量生産しておむすび「伝」の名前で販売の拡大をしようなんて・・・ |
しかし、おむすびのためのお米は私を含める生産グループが栽培し私がすべて仕入れるというシステムだったので、 とてつもない大量のお米と借金を背負いながら新たな道を切り開かなければいけない状況です。 正直、会社も諦めて親父に頭を下げて田んぼも売らなければいけないのかとも思いました。 ここで立ち上がってくださったのは野風m光さんでした。 「このお米は誰が食べても美味しいと分かってもらえるのだからブランド米として販売しなさい。」と言ってブランド作りに多大なる協力をしてくださいました。 私もこの頃は家にも帰らずカプセルホテルで暮らしながら必死に営業活動をしておりました。 そして何とかこの危機を乗り切り「植酸栽培コシヒカリ伝」は軌道に乗り始めました。 |

オレ、中尾ミエと結婚したい!このころ、NHKで日曜日の夜中に「青春のポップス」という番組がありました。
昔に流行った洋楽を日本の歌手が歌うのですが、その中でも中尾ミエさんはずば抜けた歌唱力で私を感動させてくれました。 そしてある日、銀座で食事会の席でその話をしたところ、「私、ミエさんの知り合いよ」という人がいてこの話がご本人の耳に伝わってしまいました。 ミエさん・・「面白いじゃない、会ってみましょ!」ミエさんはとても優しくしてくれてテレビでのコワイ印象とはぜんぜん違いました。 中越地震 被災地米ブランド化計画2004.10.23、新潟県中越地区で震度7の大地震が起き、その直後にミエさんから「私を被災地へ連れて行きなさい!」と電話がきました。 新幹線は脱線していたので車で東京から現場へ向かったのですが、ミエさんはメディアを避けながら震源地や避難所を回り被災者の方々を励ましてくれます。 それから何ヶ月かふたりで「私たちに何ができるだろうね?」と考えた末、とうとうやるべきことを見つけました。 「中越地震 被災地米ブランド化計画」です。 |
被災した農家の人たちが自分で作った米を自分で販売して、農家が利益を得られるシステムを作ってあげようという計画です。 ちょうどこの年に中尾ミエさん、伊東ゆかりさん、園まりさんの3人娘が40年ぶりに復活し、コンサートツアーで全国を回りながらこの活動のための義援金を募り、半年も掛からずに1千万円以上の金額が集まりました。 この活動を「3人娘田んぼ復興計画」と名づけ、被災地に生産組合を立ち上げて「3人娘」というブランド名でお米の販売を開始しました。 この活動の中で私は栽培指導と販売システムのプロデュースを担当しました。 この活動は山古志地区の生産者の努力もあり予想以上にうまく行き、現在もこのブランドは好評販売中です。 自分で自分のライバルを作ってしまいました・・・ |

「料理人・野風m光さんと行くかやもり農園ツアー!!」 |
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今では毎年恒例となったこのツアーは野風m光さんの御協力をいただきながら開催しております。農作業体験や料理教室、野浮ウんの料理で宴会、1泊2日のとても贅沢な内容です。「生産者と消費者がつながったらこんなにも素晴らしいんだよ。」ということを証明したいんです。 |
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