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米作りの歴史

米作りの歴史

かやもり農園の歴史

初代・伝兵衛さんが
農家を初めてから300年以上、
新潟加茂市のこの地を守り、食べていただく人の為
お米を作り続けてきました。

萱森家の昔。そしてこれからに続く。

歴史年表

1700


元禄13年

初代・伝兵衛さん(?~1736)により農家、萱森家がはじまる。

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初代・伝兵衛さん

我が家には家計図が存在するのですが、初代・伝兵衛さんについて確かなことは1736年(元文元年)の11月9日に亡くなったということだけです。
ですからだいたい1700年頃に萱森家がはじまったと解釈してください。
歴史年表を見ると、徳川綱吉の生類憐みの令が発令されていた頃にご先祖様は生きていたようです。

1961


昭和36年

この頃から 9代目・二郎、10代目・隆一の活躍により経営規模を拡大。

1967


昭和42年

11 代目・教之が誕生。

1987


昭和62年

教之が就農。

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農業がしたくない!大っキライだったんです。

子供の頃から「おまえは萱森家のあととり息子なんだから農業をしなければいけない」と言われながらも、農業の世界へ進む道を避けて生きていました。
高校も農業高校へは行かず、農業大学を受験させられた時も白紙で提出。なぜ農業がイヤなのかというとカッコ悪いと思っていたから。
子供の頃なぜか家が農家だということを馬鹿にされていて、学校のある先生には授業の中で「今、農業をしている人はそれしか出来ないからやっている人たちなんだ」という偏った考えを聞かされて自分の中の農業嫌いがどんどん膨らんでいったんです。

そんな私がなぜ就農を!?

単純なんです。車を買ってもらえる。冬の季節は自由にすごせる。
若かった私には自分の感情よりもその2つの条件の方が勝ったんですね。
毎日ふてくされながらオヤジのあとについて農業を勉強し、まわりには自分が農家である事を隠しながら生活していました。

農閑期のすごしかた

稲刈りが終わると春までのあいだ、毎年テーマを決めて農閑期を過ごしました。
華やかな世界を見たくて東京・六本木で水商売のアルバイトをしたり、カリフォルニアに農場を持つという夢を抱きながらひとりでアメリカで駆けずり回っていたり・・・別世界でいろんな経験をしていると客観的に世の中の自分が立っている位置を確認することができました。

1989


平成元年

教之が米作りを任される。同時に有機栽培の勉強をはじめる。

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数少ない若い農業後継者は将来、地域の農業を担う事をあたりまえの様に期待される。

農家全員が足並みを揃えてただ農協や県の指導どおりに米を作り、出来上がった米を農協に出荷する。 その道を外れる者は後ろ指をさされる。
保守的な環境の中、就農3年目を迎えた私は米の栽培を任されると同時にオヤジや世間の期待を裏切りながらも自分にとって魅力のある農業を考えはじめました。
価値のある米を作ってお客様に喜んでもらいたい。
そんな思いから有機農法を勉強し、実際に栽培を試みながら毎年経験を積みました。 案の定、まわりには変り者扱いされましたが初めて農業に充実感を覚えました。

1990


平成2年

米の直接販売を開始する。

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いろんな農法を試みる事によって自分の稲作に自信が持てるようになりました。

そして、新潟県内の農業後継者グループでのコシヒカリの食味コンテストで最優秀賞もいただきました。

自分が育てた米の良さをお客様に伝えながら直接販売したい。

そんなことを考え始めた頃にたまたま入ったレストラン、とにかく食材にこだわり腕の立つマスターのお店でした。

食事中にマスターは必ずお客のところへあいさつに来るのですが、「うちは豚は種子島の黒豚・・・、塩は・・・、水は・・・」 うんちくを語っているところに私が「お米はどこの米を使っているんですか?」「魚沼の○○さんに頼んで作ってもらっている。美味いだろ?」
「おれの作った米の方が美味いですよ。」そしたら怒ってしまって「じゃあここへ持ってきて食わせてみろ」とのこと、私は翌日本当に持っていってしまいました。
すると次の日、電話が来て「○○さんの米を断ったから今後この米を売ってくれないか?」
これを機に私は世の中に自分の米は認められるという自信を持ち、直接販売をスタートしました。

その後マスターとは仲良くなり、いっしょに全国を食べ歩いたり、味の判断、料理の基本などを教えていただきました。

1996


平成8年

植酸栽培の生みの親、増田俊雄先生と出会い、有機栽培から植酸栽培へ切り替える。

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増田先生と植酸栽培との出会い

現代、農業の世界にはいろんな農法・理論が存在して、またそれに乗じていろんな資材も存在し、インチキセールスがたびたび田んぼを訪れるのです。 そんな中、知り合いを通じて埼玉から来たというからだの大きな老人が現れ、私に非常識なとんでもない農法を自信満々に伝えます。

私にはまったくそれを受け入れる気持は無く早く帰ってくれないかなと思いながらも知り合いの顔を立てるためだけに話を聞いていました。
「だまされたと思ってとにかくやってみろ!また来週来るからな。」と言ってやっと帰ってくれました。
一応言われた作業をし、1週間後にまた老人が訪れました。「稲の根っこを掘ってみろ。」稲を土ごと掘り起こし有機栽培の稲と比べるとたった1週間で明らかな根の発育の違いを見せつけられました。まさに私が目指した稲のかたちです。

その後は全面的に先生を信頼し、毎週のように私の田んぼへ通ってきてくれる先生の植酸栽培の理論と私の考えを組み合わせながらいろんなパターンで稲作を試みました。

1998


平成10年

教之、第1子(長女)の誕生をきっかけに安全な食への思いが強まる。

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父親になった日

稲刈りシーズンの真最中に娘が誕生しました。 これまでは儲けることを目的に美味しい米、安全な米を作ってきたのですが、子供に食べさせたくないものだらけの時代、生産の段階では消費者には見せられないような現実がたくさんあり生産者の立場から何とかしなければいけないと考えはじめました。

2001


平成13年

植酸米を多くの人に食べてもらうために、おむすび「伝」を移動販売車ではじめる。

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植酸米を多くの人に食べてもらうために。

本当の味を世の中に知ってもらうために、そして安全な食への意識をもっと広めるためにはどうやって伝えればよいのか?
・・・おにぎり屋!!
店を持つには金がない。
・・・移動販売車!!
もちろん家族やまわりもみんなが反対しました。理由は「誰もそんなことしてないじゃないか!」とのこと。
誰もやらないから私がやらなきゃいけないんじゃない。
そんな中、妻だけは協力してくれました。
さすが「いっしょにアメリカで農場を持とう。」という夢を抱いた同士です。

2002


平成14年

おむすび「伝」の事業拡大のために東京へ進出。
赤坂にて株式会社 伝 を設立する。
11 月、虎ノ門店オープンする。
分とく山、総料理長・野﨑洋光氏と出会う。

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おむすび「伝」は予想以上に大反響

私が生まれてはじめておむすびを握ったのはおむすび屋をはじめた初日でした。
今思えば最初はホントに酷いものを出していたな~と思います。
でも誰にも教わることなく毎日試し試しご飯を炊いて、握りも研究して腕を上げました。

その中でも日本テレビの「スーパーテレビ」というドキュメンタリー番組では私の東京進出への挑戦を放送され、一気に新潟から東京へ導かれるようにデビューできました。
そしてそれと同時に港区で株式会社 伝を設立しました。

「分とく山」へ殴り込み!?

我流で研究したはずなのに私はいつの間にかごはん炊きとおむすびの先生としてNHKや民放のTVで講師を務めるようになりました。

そんなときに「土鍋ごはんで有名な料理人がいるよ。」という情報を耳にし、釜とかまどでごはんの炊き方を勉強した私はどうしても納得ができず、料理人に会って話をすることにしました。

今振り返っても恥ずかしいのですが、その頃の私は天狗になっていたのでしょうか、心の中では「料理人の鼻を折ってやろう」などととんでもない気持ちもありました。
まだ野﨑洋光氏の顔も正体も知りません・・・

知人の紹介で分とく山のお店で野﨑氏とはじめてお会いしました。このときのことは一生忘れません。
野﨑氏はとても優しい笑顔で説明しながら土鍋ごはんを炊いて見せてくれました。 目の前で土鍋の蓋から湯気が立ち上がり、中でごはんがグツグツと煮える姿や、ふっくらと蒸れて膨らむ姿が目を閉じると見えてくるようです。

野﨑氏の優しさとワクワクするほど楽しみな土鍋ごはんを目の前に、とても幸せな気分を感じました。
直接的な言葉で私に訴えるわけではないのですが、私は大きなことを悟らされました。

「固定観念は無く、食べる人に喜んでいただくために料理をする。それだけ。」

あたりまえのことなのに当時の私は考えもしていないことでした。 こだわりを押し付けることしかできない若い職人の野望ははみごとに返り討ちを食らって、野﨑氏に対するまなざしは尊敬と憧れへと変わりました。

じつはその時、もうひとつのエピソードが起こっていました。 野﨑氏は手みやげに持っていったおむすびを私の目の前でひとくち食べてしばらく黙っていました。
何も言わぬまま立ち上がって調理場にいるお弟子さんたちに配り「これが本当のお米の味だよ。」と私の作るお米を認めてくださいました。
こんな生意気な田舎者のお米を喜んでくれるなんて・・・と思ったけど、野﨑洋光氏も強烈な福島訛りでした。

2003


平成15年

全国のおにぎり屋ランキングでだんとつのトップを獲得した後、
自らの手でおむすび「伝」6 店舗を閉め、別の飲食店を手掛ける。
「植酸栽培コシヒカリ 伝」のブランドで米販売を開始する。

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東京進出

東京に進出してからもおむすび「伝」の快進撃は続き、6店舗にまで成長し、メディアでよくあるランキングでもおにぎり部門でだんとつトップの評価をいただくようになりました。

しかしそのとき、提携を結んでいた大手の会社と経営の方向性のずれが生じ、私自身の手ですべての店を一気に閉めてしまいました。

商売というのは仕方のないものだと分かってはいるのですが、工場で大量生産しておむすび「伝」の名前で販売の拡大をしようなんて・・・
娘の時代のために・・なんていう言葉さえも販売のための薄っぺらな宣伝文句になってしまうでしょ?
経済的な安定を捨ててでもおむすび「伝」の名を汚してはいけないと思ったんです。(言い訳)

しかし、おむすびのためのお米は私を含める生産グループが栽培し私がすべて仕入れるというシステムだったので、とてつもない大量のお米と借金を背負いながら新たな道を切り開かなければいけない状況です。
正直、会社も諦めて親父に頭を下げて田んぼも売らなければいけないのかとも思いました。

ここで立ち上がってくださったのは野﨑洋光さんでした。
「このお米は誰が食べても美味しいと分かってもらえるのだからブランド米として販売しなさい。」と言ってブランド作りに多大なる協力をしてくださいました。
私もこの頃は家にも帰らずカプセルホテルで暮らしながら必死に営業活動をしておりました。

そして何とかこの危機を乗り切り「植酸栽培コシヒカリ伝」は軌道に乗り始めました。

2004


平成16年

中越地震をきっかけにボランティア活動がはじまる。

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オレ、中尾ミエと結婚したい!

このころ、NHKで日曜日の夜中に「青春のポップス」という番組がありました。
昔に流行った洋楽を日本の歌手が歌うのですが、その中でも中尾ミエさんはずば抜けた歌唱力で私を感動させてくれました。
それを聴きながら私は妻に「オレ、中尾ミエと結婚したい!」と告げました。
こんなにも感動させてくれる人と一緒にいれたらどんなにも素晴らしいだろうね・・っていう意味です。

そしてある日、銀座で食事会の席でその話をしたところ、「私、ミエさんの知り合いよ」という人がいてこの話がご本人の耳に伝わってしまいました。
ミエさん・・「面白いじゃない、会ってみましょ!」ミエさんはとても優しくしてくれてテレビでのコワイ印象とはぜんぜん違いました。

中越地震 被災地米ブランド化計画

2004.10.23、新潟県中越地区で震度7の大地震が起き、その直後にミエさんから「私を被災地へ連れて行きなさい!」と電話がきました。
新幹線は脱線していたので車で東京から現場へ向かったのですが、ミエさんはメディアを避けながら震源地や避難所を回り被災者の方々を励ましてくれます。

それから何ヶ月かふたりで「私たちに何ができるだろうね?」と考えた末、とうとうやるべきことを見つけました。 「中越地震 被災地米ブランド化計画」です。

被災した農家の人たちが自分で作った米を自分で販売して、農家が利益を得られるシステムを作ってあげようという計画です。

ちょうどこの年に中尾ミエさん、伊東ゆかりさん、園まりさんの3人娘が40年ぶりに復活し、コンサートツアーで全国を回りながらこの活動のための義援金を募り、半年も掛からずに1千万円以上の金額が集まりました。

この活動を「3人娘田んぼ復興計画」と名づけ、被災地に生産組合を立ち上げて「3人娘」というブランド名でお米の販売を開始しました。 この活動の中で私は栽培指導と販売システムのプロデュースを担当しました。 この活動は山古志地区の生産者の努力もあり予想以上にうまく行き、現在もこのブランドは好評販売中です。
自分で自分のライバルを作ってしまいました・・・

2005


平成17年

「伝ゴールド」を販売開始する。
2年前から準備を進めていた
鮭の肥料の大量生産を開始

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地元の加茂川では毎年春に何万匹もの鮭の稚魚を放流し、世界の海を泳いだ鮭たちはやがて大人になり4年後の秋に産卵のために自分が生まれた川へ帰ってきます。
加茂川漁協は川に梁を仕掛けて鮭を捕獲し、稚魚を孵化させるための卵を採取しますが、鮭の体の部分は使いみちが無く処分に困っていました。
川を上った鮭は臭くてとても食べられるような品物ではありません。
そこで、かやもり農園はすべての鮭を引き取り、発酵、熟成させてボカシ肥料に作りかえることにしました。
これが土作りにとても良い肥料になるんです。
まさに自然の恵み。

2007


平成19年

第1回「かやもり農園ツアー」を開催する。

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「料理人・野﨑洋光さんと行くかやもり農園ツアー!!」

今では毎年恒例となったこのツアーは野﨑洋光さんの御協力をいただきながら開催しております。
農作業体験や料理教室、野﨑さんの料理で宴会、1泊2日のとても贅沢な内容です。
「生産者と消費者がつながったらこんなにも素晴らしいんだよ。」ということを証明したいんです。

2008


平成20年

「コシヒカリ 鮭」を販売開始する。
12月、萱森家 12代目・達丸が誕生

2013


平成25年

9月、アトレヴィ大塚 にて
おむすび伝〈シーズン2〉 開店

2014


平成26年

3月、秋葉原アトレ1 にて
おむすび伝 開店
10月、萱森家古民家再生工事完了

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昭和14年に建った自宅を古民家再生しました。
「昭和初期の農家」というテーマで建てた当初の状態に戻し、畳の茶の間の真ん中に囲炉裏があり、隣の板の間にも大きな掘りごたつ式の囲炉裏があります。
この空間はその後に大勢の人たちの癒しや楽しみの場となります。

2016


平成28年

12月、NHKの某番組にて
「かやもり農園の正統派おむすび」VS
「某有名タレントの邪道おにぎり」

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NHKでアイドルグループNEWSの年末特別番組で「加藤シゲアキ&萱森教之」VS「増田貴久&勝俣州和」のおにぎり対決をやりました。
私は自家製梅干しとお気に入りのこだわりの塩にいつもの佐賀産の一番海苔、そしてもちろん伝ゴールドのお米で炊き方握り方もいつもの萱森流です。
相手はチャーシューを刻んで煮汁と一緒にごはんに混ぜ込み更に煮卵を包んで握るという超邪道おにぎりです。
私と加藤君も番組スタッフも正統派おむすびが勝つと信じていたのですが、結果はなんと!一般審査員の方たちの票は邪道おにぎりの方が多かったのです。
接戦ではありましたが見事に負けてしまいました。
おむすびで生産者から消費者に伝えるために15年もやって来たのに、世の中の人はこっちのおにぎりの方を求めるのか・・・
悔しがる姿を見せる事さえも悔しかったのですが、後になってみたら人生の転機でありました。

2017


平成29年

2月、都内の運営にかかわる飲食店から手を引く
5月、かやもり農園を主体に
加茂農泊推進協議会を設立
自宅古民家へお客様の受入れを開始

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2カ月前の負けを引きずって・・・ウソ!
商売って数字合わせでもあるので、おむすびなど単価の低い飲食店ってなかなか食材経費が掛けられない、人件費が掛けられない。
だから本当に私がお客様に食べてもらって伝えたいというものが提供できず、特に東京へ進出してからはずっとモヤモヤしていました。
しかしこの15年間を振り返ると、自分で商売をはじめて、東京で会社も起業し、多くの出店、必死の営業、たくさんのことを学びました。 そしてたくさんの繫がるべき人との御縁をいただきました。
東京では十分に勉強させてもらったし、こんどは舞台を変えて農家が生活する場所から生産者の声を発信しようと思いました。
そして、地元にも貢献できたらいいな~って考えています。

加茂農泊推進協議会について

発送・決済について

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美味しいご飯の炊き方

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